日々うたかた

双極性障害の女

2020-03-05 『人形塚』、『片腕』を読んだ

澁澤龍彦の『人形塚』と、川端康成の『片腕』を読みました。
すこし前に、「独身者機械」について検索を掛けたとき、ある論評にたどり着いたのがきっかけです。すごくおもしろかったので、ぜひ読んでみてください。

<独身者の機械>と<異形の身体>表象 : 「他人の顔」「片腕」「人形塚」の同時代性

とりあえず、独身者機械について軽く、この論評の抄録から引用します。

<独身者の機械>とは「人間的感覚の喪失」および「女性との関与や交感の不可能性」を<独身者>および<機械>のメタファーで捉えた概念だが、(……)

この概念についてはそんなに触れたいわけでもないので軽く流します。気になったらM. カルージュの『独身者機械』を読んでみてください(わたしはリラダンの『未来のイヴ』を扱った部分しかほぼほぼ読んでないです)。
さて、上で挙げた論評で取り上げられていた、『人形塚』『片腕』をぜひとも読んでみたいと思い、本を手に取ったわけです。


まず、澁澤龍彦の『人形塚』。
澁澤は先日のブログでも取り上げた、『快楽主義の哲学』を読んだことが記憶に新しく、文章も好みだったので、期待して読み始めました。
ざっくり説明すると、主人公の小学校教師が、「人形塚」という壊れた人形の捨てられる場所で、教え子である女児2人の屍体を次々に拾い、「これは人形だ」と言い聞かせながら部屋に持ち帰る話です。

小早川葉子という児童の屍体を人形塚で見つけたシーンから抜粋します。

 (どこにも毀れたところのない人形が、人形塚に捨てられる道理はないからな)とおれは心の中で、おかしな固定観念にしがみつくように、執拗に繰り返していた。
 しかし小早川葉子の身体には、どこにも目に立つような外傷はなかった。
 (ふん、それでもおれにはわかってるぞ。お前にはちゃんと捨てられる理由がある。毀れているというほどではないが、ひとつの欠陥にはちがいない。ほら、どうだい……)
 と、おれは、思い切って葉子の唇のあいだに親指と人さし指をさしこみ、上下の唇を力いっぱい押しひらいて、下の歯に嵌まった歯列矯正の銀の針金を露出させた。そして、(これがお前の欠陥だったんだなあ。そのためにお前は……ああ、可哀そうに……)
 と、しみじみした調子でつぶやいた。

心のなかで「うわ〜〜!!」って叫びました。壊れた人形が捨てられる人形塚に、身体的な欠陥(障害)のある女児の屍体が捨てられている……。フェチズムがすごい(すごい)。1962年初出らしいので、60年くらい前になるんですかね、今の時代に発表したら色んな機関からタコ殴りにされそうな話だなって思います。

話はすすみ、主人公の部屋に数人の来客が訪れることになり、2人の屍体をどう隠すかが問題となります。

 おれは瘧(おこり)が起きたようにがたがた慄えながら、人形の手脚を鋭利な刃物でばらばらに切断する、その甘美な空想の情景を、目瞼の裏に思い描いた。
 甘美な? そうだ、おれは人形を愛していればこそ、人形をもっとも人形らしいもの、つまり、何と言うか、物体のようなものにしてやりたいという、甘美な空想に抗しがたく誘われるのではないか。
  (中略)
 なにもおれだけの病的な欲望ではない。誰だって、人形の肢体をばらばらに分解してみたいという欲望を、心の奥に、必らずもっているにちがいないのだ。
 欲望だって? そう、たしかに欲望だ。しかし、間違ってはいけないぞ、それはまぎれもない、愛の欲望なのだから。

フェチズムの大洪水やん……。読んでて自分の鼓動が激しくなっていく感覚を覚えました。「人形をもっとも人形らしいもの、(……)物体のようなものにしてやりたい」というところにいっとう心をつよく惹かれます。
愛の欲望って何だろうな、と思ったとき、身体のすべてを解剖して文節に区切って、切り取って、几帳面に並べて詳らかに検分するような、そんな情景の痛烈なイメージが湧きました。

ふと思い出したので、ドゥルーズプルーストシーニュ』からすこし引用します。

愛される者は、ひとつのシーニュとして、≪魂≫として現れる。そのひとは、われわれにとっては未知の、ひとつの可能な世界を表現する。愛される者は、解読すべきひとつの世界、つまり解釈すべきひとつの世界を含み、包み、とりこにしている。

愛の欲望が、愛の対象のもつ世界を解読することであったなら、上述のように、すべてを詳らかにするイメージは妥当なものに思えます。
それに対して、「愛」と呼ばれるものに、対象のすべてを包み込むようなイメージをわたしは持っています。愛の欲望は愛欲とは別物なのかな……どちらにせよ、愛の欲望よりも、愛のほうが上位にくる感情のように思います。愛が愛の欲望を内包するというか。詳らかにしたい、知ってしまいたい(=愛の欲望)けれど、あえてそのままを受け入れるような姿勢(=愛)という感じ……。
何を言ってるんでしょうね。

ところで、『人形塚』に話を戻して、次の一節を見てみたいと思います。

 申すまでもなく、おれは二十四歳の独身者だ。そして、たぶん、まだ童貞だ。
 (たぶん)というのは、奇妙に聞えるかもしれない。が、この点については、はずかしながら、自分でもよくわからないのだ。説明は、省略させていただく。

なんで「(たぶん)」なのかすごく気にかかるんですよね。これは小早川葉子の屍体と関係しているとみていいのかな…とか…。
気にかかるけど、真相を知ってしまったらがっかりしそうです。そういうことは世の中に幾らもあるので……。


このくらいにしておいて、川端康成の『片腕』の感想をすこし書きます。
えっと……すごく気持ち悪かったです……。あらすじとしては、男がある女から片腕を借りて帰り、一夜を腕と過ごす、というものです。ここだけ聞くとめっちゃおもしろそうじゃないですか?
片腕を貸してくれる女と、主人公の男のふたりだけが描かれた話であれば、多分楽しく読めたと思います。でも、そうではなく、男が腕との会話を通して、これまでの他の女たちとの情事なんかに思いを馳せていくんです。めっちゃ気持ち悪くないですか……そうでもないですか……。めちゃくちゃ胸糞わるくなった一節を引用しようかと思ったんですけど、見返しても胸糞がわるくなったので、やめておきます。
男が自分の腕と女の腕を取り替えるあたり(割合最後の方)はとてもよかったです。


関連がなくもないので、今日の昼間に血迷ってた話をすこしします。
色々思案したところ、性的興奮を倒錯した(性的でない)対象から得ること、そして、その興奮を性的でないやり方で享受すること、またその表現をわたしは好むみたいです。
人間は本能の壊れた生き物だそうなので、倒錯的であること(=本能に反すること)は、むしろ人間らしいのかもしれないです。読書中に「うわ……どシコ…!!」と思って興奮してしまうことがままあるのですが(語彙が最低)、今日の思考を踏まえると、その興奮は「人間」らしいものなのかもな、なんて思うとなんだか笑っちゃいそうです。(ただの興奮と性的興奮の区別がついていない人間)

最後になりますが、今日扱った書籍について、Amazonのリンクを貼っておきます。

新訳 独身者機械

新訳 独身者機械

澁澤龍彦 初期小説集 (河出文庫)

澁澤龍彦 初期小説集 (河出文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

眠れる美女 (新潮文庫)

  • 作者:康成, 川端
  • 発売日: 1967/11/28
  • メディア: ペーパーバック


今日も生きましたね。明日がきます。 


追記
「初々しさ」や「処女性」を人間(日本人?)が好みがちなことについての書籍や論文があったら教えていただきたいです。また、「かわいい」という概念について、歴史等も踏まえて書かれたものがあれば、そちらも気になるので、お心当たりがあったらぜひお願いします…。
(「初々しい なぜ好き」とかアホ丸出しワードで検索したら、しょうもない恋愛コラムしか出てこなかったので…)(「かわいい」は色々研究がありそうな気がします、自分でも調べようね。)

2020-02-29 まどろみ

まどろんでいる。

ガラスのなかの金魚、投身自殺するモルモット 、もはや肉は焦げて、土のなかの屍体、きっともう骨すら残ってないよ、さみしいね。

ゆっくりと時計の針が、けれど確かに、進んでいく。
クロノスタシスって知ってる? 時計の針が止まって見える現象のことだよ。
あの子の歌声が聞こえる。

赤橙。

フワフワの音が眠ってるらしいよ。
そこはかとなく日々は続いていくみたいだよ。

飲まれる、音の波、静謐な部屋、満たされて、生理食塩水の渦。
あのとききみが殺したひと、わたしだったら、よかったのに、なんて、思うこともなくなったよ、ごめんね。
無水エタノールは、もう売ってないんだ。

夜のとばり、とばり、とばりって変なの、烏の羽みたいだね。

まんまるな黄色、抱いて、溶ける、夜に。
もはや衣擦れの音もしないんだ、もはや、オレンジの光しか見えないんだ、もはや。

メロンフロートのさくらんぼ、きっとあの子のくちびるに似合う。

2020-02-27 『捨てられる迄』を読んだ

谷崎潤一郎の『捨てられる迄』を読みました。『刺青』とかを読んだことがあったのだけど、かなり久しぶりに触れました。
倒錯した感じとか、登場人物の変容していく感じが、めちゃくちゃ谷崎〜〜って感じでよかったです。

読むきっかけは、岸田秀の『ものぐさ精神分析』にて、軽く言及されていたからなんです。

恋愛とは形式であって、内容ではない。だれか偉い人が言っていたと思うが、この意味において恋愛は芸術に比せられよう。それ自体としてはたいした値打ちのない材木を彫りあげて、芸術作品としての彫像ができあがるのである。芸術作品としてのその美や価値は、その素材である材木のそれではない。

この「偉い人」というのが、谷崎潤一郎だったわけです(多分ね)。
わたしはこの一節がとても気に入って、どうしても「偉い人」の書いたものが読みたくなったのですが、その本を特定するのにどんな労力を掛けたかは全く覚えていません。気づいたら図書館から『谷崎潤一郎全集 第二巻』を借りていました。

実際に該当部分を引用したいと思います。

「恋愛は芸術である。血と肉を以て作られる最高の芸術である。」──幸吉は斯く信じて、一生懸命に自分の恋人を創作しようと努めて居る。

「ヘェ!!!」って思いました。けっこうあっさり書かれてしまっていたので。幸吉というのは主人公の男です。
続きます。

彼の女の改造と云う事は、勿論其の性格に就いてのみ云為するのではない。彼の女の全体──例えば容貌、表情などにも、幸吉は明らかに其の後の変化を認める事が出来た。彼は自分の幻覚(イリュージョン)が、だんだん彼の女の目鼻立ちに反映して行くように覚えた。彼の女の容貌は、幸吉の雰囲気を呼吸してから、一層其の美しさを洗錬し、増加したように感ぜられる。

あ〜〜〜!!ってなった。恋人同士という特別な関係になることで、恋人の互いの理想・幻想に近づいていき、またそこで抱かれた幻想に近づき……。それで幻想から外れたことをすると「幻滅した」とか言われるわけですよね。幻想見てるのはソッチやぞっていう話ね。
(そういえば実際の文章は文語体で書かれています。慣れないので口語体に書き換えました……ごめんなさい……だって入力しづらいんだもの……)

すこし話が変わりますが、心理学に「モデリング」という語があります。テキトーな説明をすると、好意的に思う相手に仕草なんかが似ていく、というやつです。憧れとかの感情からも起こるらしいですね。ついでに人間は自分に似たものに惹かれやすいという法則もあるようなので、こう、お互いの沼に嵌ってしまったら最後ズブズブに「似てくる」→「好き」→「似てくる」……のループが起こり得るんだと思います。
何でこの話持ち出したのか分かんなくなりました。

『捨てられる迄』を読んで思ったのは、恋愛というひとつのかたちのなかに、恋人であるふたりが内包されている、もしくはふたりが恋愛そのものなのかな、ということです。ふたりが互いに幻想を抱き、各々自分に抱かれる幻想に近づいていく。これが「血と肉を以て作られる最高の芸術」というやつなのかなあと思います。
わたし自身、はじめはふたりの外に恋愛があって、それを共同作業で芸術作品にしていくのだと思っていました。そうではなくて、人間が、そしてその幻想が、恋愛という芸術の素材であり、お互いを彫り進めて変化させることこそ、芸術作品に比せられる「恋愛」なのだな〜〜と解釈しました。ふたりの恋愛はふたりそのものだったんですね。もうほんとに何言ってるか分からんようになってしまった。
何ひとつ伝わる気がしないけど、ほにゃほにゃと納得したのでいま文章を書いてるのですが、もっと上手く噛み砕いて話せるときが来たら、もうちょっと上手く伝えたいと思います。

《まとめ》
人間は血と肉

惚れてる相手に不満がない場合、幻想(期待)を抱いていないのか、幻想しか見ていないかのどちらなのかもしれない、とか思うとちょっと怖いですね。人間という個体である限り、ヒトやモノをバイアスなしに見ることは不可能だとは思うけど、それにしたってだよ。

さて、明日も生きようね。

2020-02-25 愛は経線

愛は経線っぽいという話をします。

まずは経線とはなにかを見てみます。

‪地球の地軸を通る平面で,地球を切った切り口の曲線で,地球の両極を通る南北線となる。子 (北) と午 (南) の方向をさしているため子午線ともいわれる。赤道を含むすべての緯線と直角に交わる。国際経度 (グリニッジ経度) ではイギリスのグリニッジ天文台を通る経線を本初子午線と呼び,経度0°とする。ここから東側を東経,西側を西経とし,本初子午線の反対側にあたる経線を 180°とする。経線は緯線と異なり同形同長で,両極で1点に集中する。‬(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より)

ほらあの、地図とかで書いてある、タテの線ですよ〜〜。あのタテの線のことです。

経線って、どんなふうに引いても、どこを通るように引いても、南極と北極を結ぶ線になるんです。
これって、愛っぽくないですか?

どんなふうに巡ったとしても、結局特定のふたりを結ぶことになる、そのふたりを結ぶものが愛だとしたら。愛のかたちはひと通りではないように、経線だって、どんな海溝を通ってもいいし、どんな山脈を越えてもいいんです。いろんな愛情をひとつの対象に抱けることも、経線がたくさん引けることになんだか似ている気がします。やっぱり、愛は経線。
好き合うふたりの数だけまるい世界があったら、なんだか楽しいですね。丸い曲面に沿って、経線のようにいくつもの感情が流れていたら、それを眺めるだけでいちにち暮らせちゃいそう。

(いやね、南極と北極を通らない経線なんてないのだろうけど、水は0℃で凍って100℃で沸騰するのだけど、つくられた現実にひとときのロマンを抱いたっていいじゃない。)

そういえば、極端なものは似てくる、という話が澁澤龍彦の『快楽主義の哲学』にありました。快楽主義を徹底しようとすると、ある種の禁欲主義と無限に近くなる、みたいな文脈だったと思います。
なんで地球の両極がめちゃくちゃ寒いのか忘れちゃったけど(きっと理科とかで習ってる)、北極と南極がどちらも極寒の地なの、なんだかおもしろいよね。

そういえば、みなさんは北極と南極どちらに行きたいですか?わたしは南極に行ってコッソリぺんぎんを食べたいです。噂によるとあまりおいしくないらしいですね。

2020-02-23 くまと宇宙

みなさんは、「宇宙」感じていますか?

わたしは感じていません。知覚できているとは思えません。在る(であろう)のに知覚してないということは、わたしの世界にそれは無いのと変わりないのです(てきとう)。
つまるところ、くまがわたしの宇宙なんです。

くまはひとつの丸い存在です。くまひとつで完結している、どこにも依存していない、ふわふわのくま。

この丸い存在を抱えていると、広い「宇宙」を抱えている気持ちになることがあります。フジリューの『封神演義』で妲己ちゃんが地球を抱えているシーンがあった気がするけど、そんな感じ。

くまと溶け合って、ひとつのまるい宇宙になる。

このひとかかえの孤独な宇宙は、わたしだけの宇宙です。くまと溶け合うと、わたしのなかにイメージが広がります。こういうときに、先人たちが考えた色々な「世界」のかたちを思い浮かべることがあります。亀や象がささえていたり、海の果ては断崖絶壁だったり。来世があったり、前世があったり。

死者の国があったとしたら、人口がとんでもないことになってると思うんですよね。みんな4畳半とかに住んでるのかな。部屋に風呂ついてなくて、銭湯までぶらぶら歩いたりするのかな。

そんなことより、くまのやわらかさとあたたかさ、触れる感触、抱きしめたときのしっかりした感じ、そういうのを知覚できるのはやっぱりしあわせです。くまがわたしの世界にいてくれてよかった。まあ、くまは宇宙なんですけど。

2020-02-18 生き苦しいねという話

世の中に間違いは幾らもあるのに、確固たる正しさというのがなくて、絶対的に縋れるものがないというの、結構厳しいな〜と思っています。

例えば、ファッションに関して。好きな服を着たい気持ちと、社会に要請される服装でなければという思いが、自分のなかでせめぎ合うことが度々あります。わたしはガーリーな服装が好きで、かわいらしい色遣い・柄のものを好んでよく着ます。しかし、「すこし年齢を考えたほうが…」という気持ちを抱くことがあり、なかなか思うような、好きな服装で出掛けることができません。年相応かつ田舎で浮かない無難な服装に落ち着いてしまいます。

ファッションって、自由でいいと思うのです。性別や年齢に囚われず、自分の好きなように楽しむことができるはずなのに、社会の要請という、曖昧だけれど強力な制約に縛られてしまうのです。

話がかなり変わりますが、創作を精力的にしていたときに、表現をすることに躊躇いを感じるときがありました。Aだと主張するとき、Bを否定してしまっていないか?とか、ストーリーの展開を劇的にするために他人を消費していないか?とか。

他人を消費すること、分かりやすい例をあげるとアイドルの方々なんかは、消費されることを仕事としている、と言えるのではないかと思います。その善し悪しはわたしには判断できないし、例えば「そういう職業はダメ」と言うと、それで生計を立てている方々や誇りを持って仕事をしている方々を否定することになるように思います。

誰かを傷つけてまで自分の意見を主張すべきなのかが、今のわたしには分からないです。誰も傷つかない発言なんて、思想なんてあるのかな。もう何年も前、「五体満足に産んでくれた親に感謝」みたいなツイートに「うちの妹は生まれつき身体障害があり、あなたのツイートを見て悲しくなりました」というようなリプライがついていたのを見かけたことがあって、なかなかそれが忘れられないでいます。クソリプだと一蹴することは簡単ですが、それだけで済む話ではないように思うのです。

社会通念に縋れれば生きられるなら、そうするのがいいと思うのですが、その社会の要請に制約を受けたり傷つけられたりしているひとは、どうすればそのひとらしく、ありたいように生きられるのでしょう。絶対的な正しさなんて存在しないのに、どうすれば自信を持って自論を正しいと信じて主張できるのでしょう。


このお気持ち表明がなんの価値を持つかも分からないけど、書き留めておきたいと思ったので書きました。とりとめもないしうまくまとまらないし、やっぱりよく分からないです。

2020-02-17 京都に行ってきた

わりと突発的に京都まで行ってきました。
2/14の夜中に出発し、今日の朝帰宅しました。行き帰りどちらも夜行バスだったのですが、それほどきつくなくて、というか余裕だったので(バスは満席でしたが)、「ええやん夜行バス!」と思いました。

京都水族館に行くぞ!といいつつ、近くの公園でしばらくぽやぽやして、結局水族館はショーの声を外から聞いただけで満足してしまい、ショップの商品を眺めて楽しみました。オオサンショウウオのぬいぐるみ、以前よりずっとかわいくなっていてよかったです。

鴨川を見ながらカフェでボロネーゼ風のパスタをいただいたりもしました。ねこがかわいかったです。

そして本物のカワウソと触れ合ってきました…!!とってもとってもかわいくて、気がついたらカワウソ語を話していました。手のひらがぷにぷに、おなかがふわふわでぷんよりしていて、尻尾も触らせてくれて!!たまらなかったです……時間があっという間に過ぎて行きました。

これがとっても感動的な体験だったのですが、「ギア」というノンバーバルパフォーマンスの公演を見ました。ストーリーも舞台演出も演者さんも、何もかもが素敵で素敵で、ほぼほぼずっと泣いてしまってました。そのあとも感想を言うたびに泣いてしまって、感受性のぶっ壊れを感じました。
自宅に帰ってから、今日パンフレットを開いて見たら、「ああ、確かに自分はあの時間、あの空間にいて、演者さんやお客さんと居たのだな、あの場に存在していたのだな」としみじみ思ってしまって、また泣きそうになってしまいました。

長いこと(大した年月生きてないけど)、生より死を見詰めて生きてきたな、と思います。そんななかで、生きるぞ、と決めたことに起因するのか、自分が存在すること、誰かの存在と交わること、重なること、触れること、そういうことに対する感動が生々しく湧いてくるようになりました。これが「生の実感」というものなのかもしれないですね。
この頃は、わたしのために時間を割いてくれる方々に感謝する気持ちがつよいのですが、本当に、時間を共有することの素晴らしさみたいな、うまく言えないけど、そういう感覚を持てることがすごくうれしいです。
自身の存在を実感できるということは、手を握ったら、握り返してくれる、その心強さやうれしさと、似たような感覚のように思います。

「おそろいの思い出」という概念は、もしかするととてもかわいいかもしれないですね。

お手洗いにお土産を置き忘れたり(回収しました)、スマホをカフェに置き忘れたり(店員さんが呼び止めて持ってきてくれた)、自分のそそっかしさを強烈に感じた2日間でした。楽しかったな。