日々うたかた

双極性障害の女

2020-11-22 コアントロー

コアントロー、350mL?とかの瓶を、半分飲み干しました。耳にドクドクと拍動が聞こえます。

死にたくて仕方ない、というより、生きたくない。いや、生きていくビジョンは何となく見えていて。それでも、自分に関する何もかもが無意味に思えるのです。終わらせたら、どんな痛みもきっと無くなる。そんな不確定なことに縋り付いては甘ったるい自殺未遂を繰り返しています。

きっと今日も死ねない。
本気で死にたければ焼酎ウンLとかエタノールとか合わせて飲めばいいと思う。かなり死にそうな気がする。

助けて。助けて。
きっとどうせ誰も、わたしを助けることなんてできないけど。何でって、わたしのつらい気持ちには理由がないから。ただ苦しいだけ、つらいだけ。

頭が痛くなってきた。面倒だな。この頭痛に耐えたって死ねないのに。

ねえ、明日は赤信号で飛び込めるかな。

2020-09-01 くまは甘いはちみつの夢をみるか?

あまりにも眠たいのに寝付けないので、久しぶりに書きます。

わたしの在籍している大学の通信課程では、年に4度、科目試験があります。科目試験を受けるためには期限内にレポートを提出しなければならなくて、その2回目の試験を受けるためのレポートを、先ほど投函してきました。
初回は6科目の試験を受けたかったのに、無精が祟って3科目のレポートを出すだけでやっとでした。その経験を全く活かさず、「消印有効」の四文字に甘え切ってレポートを進めた結果、2回目の試験のためのレポートも、3科目しか提出できませんでした。しかも、内容もとても酷いので、正直受験資格を得られるかどうか、そこから不安です。

今回のレポート提出経験を経て、すこし、この通信課程でやっていくコツのようなものを掴めた気がします。

そして、興味の方向がガラッと変わりました。前から日本近現代史に興味はあったけど、東大の学生運動くらいしか意欲的に知識を仕入れてなかったんです。それが明治維新以降の歴史をもっと詳しく勉強したい、という気持ちが生まれて、強くなって。

きっかけは多分、太平洋戦争です。戦争の悲惨さは各所で毎年取り沙汰されていて、平和の尊さ、有難さはわたしなりに理解しているつもりです。でも、「戦争は悲惨だからやってはいけない」という信念だけでは、戦争は防げないのではないか?という疑問が湧き上がってきたのです。戦争に至った経緯、そして戦後の日本について勉強して、自分の頭で平和や戦争についてきちんと考えられるようになりたい、という思いでいます。

眠くって何を書いているかよく分かりません。前の眠りからさめてから、そろそろ24時間が経ちそうです。

他にも書いておきたいことがあった気がするけど、また今度でいいかな。きっとまた同じようなことを思うでしょうから。
今日も、生きています。

2020-07-24 立ち仕事を膝に受けてしまった

ぜんぜん寝付けそうにないので、久しぶりに書いてみます。

最近はバイトに精を出す日々です。といっても、週に3日の出勤なので、体力的にも無理なく働けています。仕事内容もとても自分に合っていて、楽しいな、と思いながら商品整理などをしています。

先日、送ってもらった『タコの心身問題』を読みました。

最近動物愛護関連の話を聞くことがあって、なんとも言えない気持ちです。餌も治療も最低限しか受けられない繁殖犬とか、海外で犬猫を食べる際に撲殺しているらしい話とか。「痛い」「怖い」のように感じる生き物を屠殺するなら、なるべく苦しくない方法を取るべきなのだろうな、と思います。知能が高いと言われる動物を、なかなか食そうとはしないのも、こういった憐みのような感情からくるのかもしれません。
では、タコやイカについてはどうだろう、とすこし考えてみます。彼らも痛さや怖さに似た感覚を持っているとするなら……。タコたちは切られてもうにょうにょっと動くではないですか、しかもそれが皿の上だったり。痛さを感じるなら、いつまで「意識」と呼べるはたらきは行われているのでしょう。お皿の上で、実はとても苦しんでいた……とかいうことだと、もうどうしていいか分からないです。われわれは野蛮な生き物だった…。

本を読んでいて、「うわ〜タコ食べれなくなっちゃうな〜」なんて気軽に思ってしまい、そしてその思いに違和感を抱いたときがありました。鶏も豚も生きていて、いろんな工程を経て食卓に届きます。タコだって同じように生きていて、食卓まで届くのです。その点においてはなんの違いもありません。「いのち」と呼べるものがあるなら、われわれはそれをいただいています。それだけの話です。
ただ、「食べれなくなっちゃう」という思いは、「賢さ」というより、タコが多感であった、そのことに起因するように思います。さまざまに痛みも好奇心も抱く生き物をバッサリ殺して食べる行為に、引け目のようなものを感じたのだと思います。
それにしたって、やっぱり豚や牛だって「多感な」生き物です。
自分自身の、食事への慣れからくる不感、そして偽善、このふたつを今つよく感じています。認識を改めても改めなくても明日にはまたお肉をいただくのですが、魚だって切り身のまま海を漂っているわけではありませんから、生産者の方々や、屠殺など精肉過程に関わってくださっている方々へ、ふと思いを馳せるように意識できたらな、と思います。わたしが、そうでありたいと思うから。余裕があれば書籍なども探してみたいです。図書館も利用できそうですし。

本の内容では、タコは皮膚に光を感じる細胞を持っているらしい、というところがとても印象的で、惹かれました。目以外のもので視覚情報を得るのは、どんな心地がするのでしょう。

タコやイカの「思考」「感情」は、人間のそれとは大きく違っているようです。でも、タコに限らず、わたしたちって結局皮膚に覆われて一個体として存在していて、他人と物理的にも心理的にも融合なんてできないじゃないですか。「同じ人間」なんていうけど、事実「同じ」人間は存在していなくて、共通言語にだって、人間が使えば、そのひとの恣意が多分に含まれているはずです。わたしが先程述べた「一個体として存在していて」というフレーズも、わたしが込めた意味(があったとして、)を読者のみなさんが寸分の狂いなく正確に読み取る・読み解くことは、恐らく不可能です。
人間誰しもが持っているものというのに、経験と、過去の記憶が挙げられると思います。われわれは過去で出来ている、そんなふうに言うことも出来るのではないかな、とわたしは思います。ひとりひとり違った毎日を過ごしていて、同じ空を見ても違うことを考えたり感じたりするわけです。その積み重ねが結晶化したもの、それが「言葉」ではないかな、と思います。言葉の裏にひそむ文脈を探るのが、わたしは好きです。正しく読み取れることのほうがすくない気もしますが、それでも、ひとりひとりの差異が好きです。みんなちがってみんな良いかは知らないけど、ひとりぼっちたちが集まって、違う人間ながらも集団で一緒のときを過ごす、その世界って、すごくやさしい気がします。

分かり合えることは、きっと素敵なことだけど、発された言葉を誤解なく正確に分かってしまったら、きっとつまらないんじゃないかな。全知の生き物なら、好奇心なんて無いでしょうから。
分からないから知りたくなる、この気持ちを大切にしたいな、などと思います。世の中は誤解という潤滑油で回っているのかもしれないですね。

ところで、しゃべるエレベーターってありますよね。目的階に着いたら「○階です」ってお知らせしてくれるタイプの。あれが5階に着いたとき、アナウンスが「誤解です」に聞こえて仕方なくなる魔法を、今みなさんにかけました。わっはっは。

2020-07-01 友人の話

7月ですね。上半期終わっちゃったや。

Twitterで、とある方の実録漫画を読みました。うつで自殺しようと決めたとき、仲良しの後輩が1週間遊びに連れ出してくれて、また遊ぶ約束をして、生き延びた、というお話。

読んだときにハッとしました。わたしが彼にできなかったことはこれだ、って。

3年ほど前に、ふたりめの親友を亡くしました。彼は上京していて、会うこともままならず、結局、お葬式にも行けずじまいです。
「もう死のうと思う」というメッセージを受け取ったとき、何も言い出せませんでした。何度も何度も、自殺未遂を彼は繰り返していたから。その苦しい世界から救いだすことは叶わないのに、生きてほしい、なんて言えませんでした。


紆余曲折を経て、いまは「死にたい」というひとがいたら、「生きてほしい」と強く言いたい、という考えになりました。「生きてほしい」って、わたしにすれば愛じゃなくて、エゴなんです。だけど、そのエゴをぶつけられたとき、自分の輪郭を確かめられたような、地面に映る自分の影を見留めたような、そんな気持ちがしたのです。

だから、あのとき、無理をしてでも東京に行けばよかった、そう思って涙があふれました。

世の中間違いばかりで正解がなくて、しんどくなることばかりです。それでも、生きたい、と思えるから、せめて善くありたいな、と思います。

2020-05-30 最近のこと

月末ですね。既にPMSが訪れています。

色々な変化がありました。歳をとったり、バイトを始めたり、イラストや漫画の依頼受付を始めたり。どれも順風満帆、とはいきませんが、それなりに楽しくやっています。

最近は本を読む気力も無く……と言おうとして、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』とR.L.スティーヴンスンの『ジキル博士とハイド氏』を読んでいたことに気がつきました。

ねじの回転 (光文社古典新訳文庫)

ねじの回転 (光文社古典新訳文庫)

全然肌に合わなくて、ただただイギリス文学への苦手意識が高まるだけでした……。レポートも書けなかったし、もうダメです。

泉まくらを最近はずっと聞いています。ムスカリという曲が良いな、と思っていたら、これは処女作なのですね。こんなクオリティの曲ひっさげて登場したら、かなり衝撃的な気がします。
近年の泉まくらに比較すると、押韻を意識していて、より「ラップ」らしい感じ。「思い出さなきゃ無いのと一緒 この世はでっかいママゴトキット」「心にはつねに処女膜 張って新しい衝動を待つ」とか。

新品を買い求めてしまう精神は何に起因するのだろう。なぜ嫁入りまで処女でいなければならなかったのだろう。初物を好むのはなぜ?
中古品は、他人の手垢がついていて汚らしいのかしら。
分かるようで、分からなくて、たまにふと苦しくなったりします。

そういえば、「おしゃべり」を強いられた経験はありますか?男性の方に特に聞いてみたい、不要不急の雑談です。たまに男性と親しくなるとこの「おしゃべり強いられ現象」が起きて悶々としていたのですが、キャバクラ対応を求められている場合が多々あるような気がします。女性性の消費、と言ってしまっていいのかな。とってもこれが嫌いなんですよね。

過ぎたことは置いておいて、そろそろ寝ましょうね。はやくバイトのある生活に慣れてしまいたいです。二連勤しただけで次の次の日まで潰れてしまうなんて悲しすぎるので……。
目が覚めたらまた、一日を生きましょう。

2020-05-17 明日にならないで

気分が果てしなく落ち込んでいます。多分PMSなのですが、うにゃんうにゃんのぐにょんぐにょんなメンタルになってしまっていて、苦しさがあります。

明日は誕生日で、つまり今日はこの年齢で過ごす最後の日になります。「終わりよければすべてよし」なんて言いますが、終わりが最悪な予感がします。
ついでに「一年の計は誕生日にあり」だった場合、この流れのままひどい誕生日を過ごすことになりそうです。

大学在学中に発病して以来、まともに働けたことがありません。家族に頼りっぱなしの生活を何年も続けています。情けない気持ちでいっぱいになることも、少なくないです。わたしがおんぶにだっこで寄り掛かっている家族に、誕生日を祝われること。かなり肩身が狭いです。

幼稚園生のころ、家族よりはやくに寝ていたので、布団のなかでひとり、リビングから聞こえる笑い声を聞いていました。「わたしがいなければ家族みんな楽しく過ごせるのに」と思って涙を流す日が度々あったと記憶しています。
家族にとって、わたしはお荷物でしかありません。「わたしがいなければ」なんて、こんな年齢になっても、やっぱり誕生日の時期には思ってしまいます。わたしがいなければ、母をこんなに苦労させることはなかったでしょう。そんな苦労をしてまで生かす価値がある、と思われているのが苦しいです。絶対的な価値/無価値なんてないって思っているけど、自分には自身が無価値に思えて仕方ないので、してもらうすべての行為が畏れおおいのです。申し訳ないのです。

はやく、胸を張って生きられるようになりたいです。きちんと働いて収入を得て、自立したい。ご飯だって抜いたりしないし、洗濯物も溜め込まない。食器はすぐ洗う。掃除機を怖がらない。そんな「当たり前」なはずの生活をしたい。

理想ばかり高くて勝手に苦しくなるのは、あまりにもバカだなと思います。自分に出来ることをひとつひとつ確実にこなしていくことから始めないといけませんね。死んじゃいたい。